三代目徒然なるままボヤッキーニッキー

”Hay Fever”劇評
0
    “Hay Fever”(『花粉熱』)。
    初日は2月10日となってますが、実は24日まではプレヴュー期間。正式な開幕日は25日だったんですね。
    劇評も揃って解禁となり、続々と出てます。
    それにしてもストプレをほぼ四ヶ月(クロージングは6月2日)って、日本じゃ考えられんな。


    The Guardian(4-Mar)
    セットのデザイナーを褒めてます。「住人同様エキセントリックな芸術家のアトリエ」...確かに。Bliss家の息子、Simonが「アーティスト」だから、至る所に彼の(不適切な)絵が飾られていて、梯子があったり、鹿の角があったりする。土曜の昼間はさんさんと書架の比が差し込む大きな窓(いわゆるフランス窓)が、夜には雷、翌日の朝も雨なのが窓を通して分かる。
    「主役のダンカンがJudithに適役」。さらに二人の子どもたちも「ゾッとするけど魅力的」と。Waller-Bridge演ずるSorelは「成熟前の期難しさ、時折見せる男性っぽさ、悪意を持った幼児性」だと。
    そうそう、フツーにしてれば魅力的なお嬢様なのに、癇癪を起して誰彼となく掴みかかるんだよねー。ママとSimonと三人で芝居ごっこをやる時の男役もかっこよかった。
    「ジェレミー・ノーサム演じる外交官、Richardがとても面白い。潔癖、さらには苦闘していると言ってもよい。その固く結んだ口元は、Bliss家の連中の中では恐怖で身震いしそうである」。ああ、可哀そうなRichard!
    「Myra役Colmanは非の打ちどころなし。Sandy役Callisは、Amy役Jackyと同じくらい笑いを生み出す。Judithの夫、McNallyと、家政婦Clara役Gallowayはこの劇における喜劇担当である」
    …褒めてばっかだなw
    「自己満足の権化のようなBliss家を見事に表現したプロダクション。そして客人達は、通りすがりの犠牲者である」


    Spoonfed (27-Feb)

    Evening Standard (27-Feb)
    「ダンカンのJudithはエレガントかつ辛辣。Waller-BridgeのSorelは、以前演じたミランダ・ハート風味を感じさせ、洗練さを取り入れようとはしているが、ミスを連発し、ぎこちない。Simon役Foxは気難しいアーティストとしてハマっている」うーん、Sorelのちょっと不器用な感じは、癇癪起こしたり拗ねたりするキャラに合っていると思ったんだけどなー。
    「ジェレミー・ノーサムは、Judithの魅力に完全に捕まった、ドライな外交官としては反対のタイプであるが、いい仕事をしている」(笑)
    「Myra役のColmanは男を誘惑する女としてはどうだろう。彼女の豊富な舞台経験はこの役には勿体ない。McNallyも同様である」
    「“Hay Fever”は洗練された小粋な会話と定型ではあるが巧妙な演出を併せ持つプロットのない作品として扱われて来た」Plotless!そうそう。話の展開としては筋書きがなくて、会話で話が終わってしまう。
    でも「本プロダクションには、混乱と言うよりはむしろ落ち着きがみえる」。つまり、洗練されてるってことかしら。


    Financial Times (26-Feb)
    「Jeremy NorthamはJudithに魅了される、地に足がついた外交官(白髪を後ろにべったりなでつけた大柄で丸々とした体格)としては反対のタイプである」←ですよねー(笑) あの髪型はせめて頭だけでもそれらしく、という苦肉の策なのか。
    Bliss一家が住んでるのは、バークシャーのCookhamなんですね。「Bunny Christieのセットは改造したボートハウスを意識しているのかもしれないが、前回上演時のプロダクションにも似ている。Bliss家ほど慣習にとらわれない家族でなくても、1920年代にはここで暮らしていたようだ」
    あのロンドンに行こうと思えば行けるけど、カントリー暮らしにも馴染んでるっていうのがいいんだよねぇ。


    Daily Mail (26-Feb)

    London Theatre Guide(25-Feb)

    playbill.com


    | − 試訳・翻訳 | 22:32 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
    ジェニファー・イーリー、エリザベス役を語る◆BBC『高慢と偏見』メイキング本より)
    0
      ジェニファー・イーリーとエリザベス・ベネット

      最初の撮影が始まった時は、とてもワクワクしていました。撮影の丸五ヶ月間は、エリザベス役としてほぼ全てのシーンに出ずっぱりなので、たった五日間しか休みが取れないって分かっていましたが、でもそんなことでくじけるようなことはなかったんです。撮影が始まる前の最初の一カ月間、かなりセリフについて勉強しました。おかげで安心した気持になれました。つまり、新しいセリフを覚えるために毎晩ホテルの自室へ急いで戻らなくてもよくなり、その時間を関係者と知り合う時間に充てることができたんです。
      衣装とメイクに毎日ほぼ二時間かかったので、わたしが呼ばれる時間はいつもとっても早かったんです、朝の5時半から6時の間ってところでしょうか。ロケ現場が離れていたので、時間はとても貴重でした。それで一日の終わりに衣装を脱いだりメイクを落としたりすることが日ごとに手早くなりました。入浴してから髪からピンを抜くこともよくあったんですよ。
      エリザベス・ベネットとして、あのひと夏を過ごせてわたしは世界で一番ラッキーな人間だったと思います。彼女を演じることができたなんて、素晴らしいわ。でも撮影の十週間後には、疲れ果てていました。みんな、激励の意味で「大丈夫。もう半分過ぎたから」って言ってくれるんですけど、急に全てが恐ろしくなってしまって。エリザベスは素敵なキャラだけど、長い期間、毎日他の誰かになるってことは、ちょっと精神的におかしくなってしまうんです。特に、見た目にかなり違っている時は。幸運にも、その時はロンドンで五日間のリハーサル期間だったので、拘束時間がいつもより短かくて、自宅で過ごすことができたんです。眠れる時はひたすら眠って、次の十週間に立ち向かえるだけの強さを蓄えました。自分のペースでやること、そして休める時には急速を取ることを学んだんです。照明が変わって、セットを作ってる間に、時々眠ってしまうこともありました。信じられないけど、一度、撮影の一シーンのファーストテイクとセカンドテイクの間に、座ったまま居眠りしてしまったことがあったんですよ!
      わたしのラストシーンはレディ・キャサリン・デ・バーグとのシーンでした。撮影が終わって、「カット!」とサイモンが叫んだとき、完全にショック状態でした。全てが終わってしまったって信じられなかった。五ヶ月間劇場で一つの演目を演じていたというのとは違うんです。それだと一日の中に自分自身の生活がありますから。今回のことは、あらゆる普通のものから五ヶ月間隔離されていたようなものなんです、船上にいたような感じですね。自分自身の生活を取り戻せてよかったわ。でも終わってしまって悲しくもありました。わたしのエリザベス・ベネットとしての夏は、素晴らしいものでした。
      | − 試訳・翻訳 | 22:25 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
      ジェニファー・イーリー、エリザベス役を語る BBC『高慢と偏見』メイキング本より)
      0
        ジェニファー・イーリーがエリザベスを演じたかった理由

        エリザベス役ができるなんて信じられないほどです。わたしが最初にこの本を読んだのは12歳くらいの頃でした。わたしが読んだ最初の大人向けのロマンスであり、古典小説でした。『嵐が丘』を読もうとしていたんですが、理解できなかったんです、『嵐が丘』のあの情熱は本当に大人向けのものですから。『高慢と偏見』ならダーシーとリジーに恋に落ちることができました。その頃、女優になるという考えは全くなかったので、リジーを演じたいのではなくて、リジーになりたかったんです、とても。事実、二、三日の間、多分わたしはリジーになったつもりでいました。
        彼女は素晴らしいお手本です。彼女は自立していますから。溌剌としていることを推奨しない社会において、自由な精神でいようとしています。そこが現代の若い女性にも魅力を感じるところだとわたしは思います。みんな、彼女に共感できますから。だから彼女に自分を重ね合わせるのはとても簡単なんですよ。わたしは彼女のウィットに富んでいるところと知性が感じられるところが好きですね。文学や映画において彼女ほど輝いている女性のお手本になるような役はありません。彼女は確かに誰の犠牲にもなりません。
        12歳にも理解できる、女性が書いた本を読んで、それが1813年に書かれたものだと知るのはとても素敵なことです。そう思ったのが自分が最初の人間ではないとはっきり分かるんですから。それに恋することを想像する体験を持つのは素晴らしいですよね、とても浮わついているのに、安全なところにいるわけでしょ。本当に性的に脅かされるようなことは小説の中では起こらないんですから。素敵な幻想なんですよ。

        スクリーンテストに呼ばれた時、一体何人のエリザベス候補がテストされているのか見当もつきませんでした。勿論、緊張はしていましたが、本当に楽しんでいたんです。衣装を付けるのは全くわたしの助けにならないんじゃないかと思ってました。衣装が小さすぎて後ろが留まらなかったので、マイクのワイヤーで真ん中あたりを結んでいたんですよ!でもかつらとメイクはとても役に立ちました。わたし、今までこんなこと告白したことなかったんですけど、ちょっとだけズルをしたんです。わたしがブロンドだってことを皆が気にしていたのを知ってたんです。リジーは黒髪であるべきと誰もが思ってましたから。それでスクリーンテストの前夜、眉を今までより濃くして、わざと髪を洗わなかったんです。そうすればその朝、ブロンドには見えないでしょうから。誰もが言い続けてたんです、「君の眉がそんなに黒いとは気付かなかった!いいね!黒めのかつらに似合うよ!」って。

        全てうまくいったと言えますね。でも結果を待っている二、三日は心配でした。リジー役をオファーされたとエージェントが電話してきた時は、本当に胸が躍る思いでした。両親がお祝いだと言ってわたしをディナーに連れて行ってくれたんです。エリザベス・ベネットとして夏を過ごすことができて、わたしは世界で一番幸せな人間でした。
        | − 試訳・翻訳 | 14:49 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
        コリン・ファース インタビュー 4/4(BBC『高慢と偏見』メイキング本より)
        0
          撮影二週目にダーシーの最初のプロポーズシーンを撮らなければならなかったんですよね。何らかの影響はありましたか?
          最初は大惨事になるんじゃないかと思いましたね。誰もがそのシーンがどれほど重要か分かっていたんです。スケジュールの都合で、大部分のダーシーの後半シーンを最初に撮らなければならなかったんですが―それはつまり彼がもっといい人となって現れるシーンですよね―そしてこのシーンはダーシーを極限状態で撮らなければならないんです。初期の段階での撮影はあまりにも不適当だし、気が狂いそうなので、尋常じゃないくらいの配慮をして、かなりのアドレナリンを放出しました。その結果、もし後半に撮影していたら、恐らく決して出来なかったようなことに投資できたんじゃないでしょうか、その頃には皆、落ち着いちゃってますからね。未知の世界の難題に首を突っ込んだ一例ですよ。サイモン・ラングトン(訳注:BBC『高慢と偏見』監督)は見事にさばいてくれました。


          このシーンに対するアプローチはどのようなものでしたか?
          僕がそのシーンでやりたいことは何なのかという極めて基本的な質問を自分に投げかけました。「僕の役柄がやろうとしていることは何だ?」ってね。それから「行く手を塞ぐ障害物をどうやって克服するんだろう?」とも。この場合、メインの質問はこうです、「僕にとってエリザベスがどうやって困難になっていくのか?そして僕が僕自身にとってどうやって困難になっていくのか?」こういった問題に取り組めば、方法を思いつきますし、アプローチがはっきりする手助けになるものなんです。
          例えば僕が思ったのは、ダーシーが部屋に入って来て、こういうショッキングな事を言うんです―「僕はあなたにはもったいないくらいだけど、とにかく僕と結婚してくれませんか?」もし僕がこのシーンを自分が不快で尊大であると分かっているように演じたなら、効果はなかったでしょう。こう言うのは全くもって理にかなったものだと演じなければならないと、僕は認識していましたが、「どうやって演じよう?どうやって彼女の一族縁者が全くもって破滅を呼びこむことになる決めかかっている、この驚くべき演説を穏当なものに変えようか?」とも考えを巡らせていました。そして思ったんです、「オーケー、ちょっとの間、1813年にいるものと考えてみよう」って。ジェーン・オースティンの視点からだと、適切な結婚と不適切な結婚についてのこのやりとりは実に筋が通っているんです。階級の境界を越えるという惨事を引き起こすかもしれないんですからね。つまり、諸々の悲惨さや不幸せに結び付くんです、社会構造が脅かされたり、その他様々なことに。
          彼は彼女がとてつもない贈り物を授けられたと考えているほど尊大な人間でもあるんです。今までに出会った女性なら全員が、彼からのプロポーズに「イエス」と答えていたでしょうね。リジーが「いいえ」と言うのは正気の沙汰じゃなかったんでしょう。彼女が自分を魅力的だと思っていると彼が思いこんでいたからではなくて。僕はそれが理由だとは思っていないんですよ。そうではなくて、それが彼女より社会的地位がかなり高い人でも受けたいと思う現実的な申し込みだったからです。その当時誰もが思っていたでしょうけど、彼女にとってこれはシンデレラの結末になるだろうと彼は思い込んでいたんだと思います。
          それで、ダーシーは、自分に見えるまま、大変無分別なプロポーズをしにやってくるんです。彼は彼女にこう言います、「あなたに今から申し込む結婚は、僕には軽はずみで、無責任で、考えようによっては子供じみてさえ見えるかもしれません。でも僕がそうだとは受け取ってもらいたくない。僕はこのプロポーズを隅々まで考え抜きました。僕の一族は憤慨するでしょう。世間では眉をひそめるだろうし、僕たちの社会的立場はあまりにも違いますから。だから、僕がこの問題に対処しなかったとは思わないで下さい。僕を無鉄砲な学生であるかのように思わないで下さい。それでもなお、あらゆる点を考え抜いて、僕はあなたへの愛があまりにも計り知れないので、こういった障害が取るに足らないと分かったんです」。この見解からすれば、ものすごくロマンティックなプロポーズですよね。このシーンを撮影している時、僕は少し傷ついたんですよ。僕がなんかひどいことを言っているって、誰もが思っていたから。まぁ、僕も彼が本当にチャーミングな事を言うようになるって考えからは遠い所にいましたけどね。勿論、ドラマを観るときは、彼の観点からこのシーンを観ることはないでしょう。視聴者が観るのは、ある尊大な男が入って来て、まるでこれが一番自然な反応であるかのような勿体ぶった感情を表して、エリザベスの拒絶にあって驚いて苦々しく思っている流れです。それが正しいと僕も思いますよ。でも僕が行ったやり方でアプローチせずにはこういう驚きを演じることはできなかったでしょう。


          ダーシーは、ペンバリーで思いがけずリジーに出くわすまで彼女には会いませんでした。この段階で彼は何をしようとしていたんでしょうか?
          ジェーン・オースティンはこの時期のダーシーの描写に関しては、やや明言を避けて描いています。ですから僕は彼がどんなふうにしてばったり出くわす羽目になったのかについて、手掛かりを気が付くと探していました。そこには矛盾があるんです。よくダーシーは物語の途中で変化を遂げたのかどうか、あるいは彼が本当はどんな人物なのか僕らが解明するのかどうか聞かれるんですが、僕はその両方が混在していると思ってます。彼の家政婦が彼のことを愛情込めて語っていますが、彼はいつも妹を気に掛け、邸内をとても思いやりのある態度で管理しているのです。彼は突然良い人間に変わったわけではないんですよ。外見は堅苦しいですが、根はいつだって良い人間だったんだと思いますね。
          彼がペンバリーでエリザベスに出くわした時、彼には短い限られた時間でずいぶんたくさんのことを彼女に証明する必要があったんだと実感しました。三分ちょうどぐらいで彼が謝罪するつもりがあることや、思いやりや受容する気持ち、高慢な態度を捨てたことなどを彼女に示さなければならなかったんです。ちょうどきっかけをつかんだので、以前彼女を遠ざけた要因であった性質の側面を変えようとしてきたことを証明して見せました。彼は彼女に自分を愛してもらいたかった。でもたかだか数分間でどうやって誰かに自分を愛してもらおうとすることができますか?それにどうやったらダーシーの性格に反することなくそうできるでしょうか?


          リジーが拒絶したことで、ダーシーに何らかの本当の変化が生じたということですか?
          ええ、そうですよ。単純にダーシーがかつての人間に戻りつつあるとは考えられませんよね。自分について説明するため彼女に手紙を書き、いくつかの非常に個人的な情報を開示したという事実が示しています、そんなことをするのは、表向きは非常に柄にもないことではあるけれど。彼女に拒絶されて、彼はものすごく苦しんでいたんだと思いますよ、彼女を愛していたんですから。たとえ彼本来の性格だったとしても、一生の言動が彼女の言葉によって安心を得られるのなら、苦しみにも耐えると思います。
          彼の本当の罪は、僕が思うに、愚かしさです。彼について考察する上で非常に威厳のないやり方だと分かっていますが、彼が失敗した原因は、愚かしい、うわべだけの社会的俗物さ故なんです。それが彼が学ばなくてはならなかった苦い教訓です。その意味で彼は変わったんだと思います。実際小説の中でこう言ってます、父親は彼に良い価値観を教え込んだが、彼自身の社会的集団の外の世界を軽蔑することも教えたと。彼は自分の直接体験以外のことをむしろ恐れていて、彼が出会うものは押し並べて野蛮であると信じているわけです。文明化されていない分野について憶測を立てますよね、それがまさにダーシーがしたことです。無知の表れです。
          彼はそういった蛮人の一人と恋に落ちた時に反省し、彼より優っているわけではないにしろ、ウィット、知的な機敏さ、人間としての品位に関しては、彼女が少なくとも同等であることを認めるんです。彼は彼女によって心から変わったので、彼の古い偏見は支持されることはあり得ません。僕はやはり彼はいつも以前の通りの見方をしているんだと思いますね、つまり彼はいつも、お喋りがすぎる、バカバカしい退屈な人々にうんざししているんですよ。僕には彼がMrsベネットを敬愛するようになったり、Sirウィリアム・ルーカスに途方もない称賛の念を送るようになったりするとは思えませんね。
          それに、勿論、彼はまだ自分自身を笑うことを学んでいません。彼は自分自身を批判することを学ばなくてはならないんです、それがおそらく第一段階でしょう。でも彼はまだ彼自身が愚かしいことを知る方法を、そしてそのことを楽しむ方法を知りません。ですが、リジーがパートナーなのですから、結婚生活は生き残りをかけた問題となるでしょうし、間もなくその教訓を得ることになるのは明らかです。
          | − 試訳・翻訳 | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
          コリン・ファース インタビュー 3/4(BBC『高慢と偏見』メイキング本より)
          0
            物語の最後で、ダーシーはリジーに彼が最初に恋に落ちたのがいつだったか分からないと言います。でもあなたには彼の過程がもっと詳しく描かれるプロットが必要だったのかもしれませんね。
            そうですね。ダーシーが恋するようになるトリガーに注意を向けるのは、とても興味深いことなんです。勿論、恋なんてつまらないものであっても、注意を引いた何かから始まることがしょっちゅうですよね。ダーシーの場合、彼の注意を引くことは今までほとんどなかったんです。だから僕は、最初のトリガーは、エリザベスが非常に生意気な態度で彼を断った時じゃないかと思います。「我慢はできるが、そそられるほどの美人じゃないと思うね」とダーシーが言うのを彼女はふと耳にしたんですよね。彼女は通り過ぎて、いたずらっぽい笑顔を彼に見せるんです。アンドリューの脚本はこの場面でとても助けになりました。「ダーシーはこんなふうに他人を見つめることに慣れていたけど、自分が見られることには慣れていなかった」ってあったんです。それでこの瞬間、ダーシーは単純に当惑と好奇心から彼女に気付いたんだなと思ったんです。ダーシーは彼女に興味を持つようになりますが、女性に興味を持ったのはこれが初めてなんじゃないかな。それで彼女についてちょっとは知っておく必要ができたんです。分かっていようがいまいが、そんな瞬間から致死的になり得るという考えが浮かびました。

            ダーシーはルーカス家のパーティの最中にエリザベスへの興味を示し始めますが、それは彼がダンスを申し込み、彼女が断った時でした。この段階ではダーシーに何が起こりつつあると思われましたか?
            この時点まで、ダーシーが女性を本当に見たことがあったとは思えないんです、現実的に見るっていう意味ですよ、勿論、一般的な意味合いで女性を称賛したことはあったでしょうけど。実際、彼は退屈だったんです。イングランドで一、二を争う程の金持ちで、それは今までは彼を魅力的に見せるには常に十分でした。とても有益な格言を読んだことを覚えています。「結婚相手にふさわしい男は誰も楽しませなくてもよい」っていう。僕にとって、この格言はダーシーを理解する上で大きなカギとなりました。つまり、ダーシーが金持ちの上に魅力的であったとしたら、人生は彼には耐え難いものであっただろうなと思うんです。シャイな上にその必要がないんだから、高飛車なままですよ。それからエリザベスがやって来て、実際彼に答えるチャンスを与えます。恐らく彼の人生において最初の機会だったんじゃないですかね、追われるより追う立場になったのは。それが彼が最初に彼女の瞳に気付いた時だったんです。興味をかき立てられることから始まったのに、彼には大いに官能的となるわけです。

            そして彼女はネザーフィールドの舞踏会で彼と踊ることに最終的には同意します…
            そうですね。二人が一緒に踊るシークエンスは素晴らしいと思います。完璧にその時点での二人の関係の全体像が提示されていますからね。エリザベスが正直でかつ茶目っ気があるということが分かりますよね。一方で、ダーシーが当意即妙な会話を最後まで頑張りながらも、彼のフォーマルな態度を維持しようとしているのは、ちょっとばかりコミカルなところがあるかな。彼女は彼を刺激して煽りたてることを言うんですけど、彼は返事が許される前にエイトステップサークルの中にいるんです。
            ここでジェーン・オースティンは、感情を抑えようという、また巻き込まれたばかりのこの「狂気」から己を癒そうというダーシーの決意について手掛かりをいくつか示してくれています。でも彼は何が起きたのか理解する前に、完全にお手上げの状態なんですけどね。最初は、ちょっとばかりスポーツのようなものだった。それが突然、脆さを感じるようになり、ひどく憤慨する。何度か彼は自分を取り戻そうとして決意します。彼の行動が混乱と逆説の様子を帯びてくるときですね。彼はエリザベスを追い求め、同時に拒絶するんです。彼が彼女と踊らないのは確かです。でもその後で彼女にダンスを申し込んでいるんですよね。彼女が歩いてくるのが見つけられると知っているところで待っているのに、彼女と話はしないとか。ハンスフォードの牧師館に姿を見せても、まるで彼女が彼を訪問したかのようにふるまうんですよ。
            | − 試訳・翻訳 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
            コリン・ファース インタビュー 2/4(BBC『高慢と偏見』メイキング本より)
            0
              読み合わせをしてみて如何でしたか?クリスピン・ボナム=カーター(訳注:BBC『高慢と偏見』Mrビングリー役の俳優で、ヘレナ・ボナム=カーターの従兄弟)は緊張のあまりトイレに直行したら、そこで呻いているあなたを見たことを覚えているそうですが。
              誰かに見られていたことは分かってましたよ!全くもっておぞましい、気が狂いそうになる体験でした。とてつもない数の人間が突然思い切って『高慢と偏見』を読んだってことだけじゃなくて、その賭けは非常に高く付くものでもあったからです。撮影期間が非常に長かったので。全員が五か月もこれにかかりっきりになりますし、評価されることについて頭を悩ますわけです。皆、大きなオーディションのように少しは感じていました。それともう一つ、僕がこの読み合わせで実感したのは、ラジオ番組だったら、僕はダーシーを本当に楽しく演じられないだろうなということでした。身体的な特質というのがダーシー役には不可欠なんです。基本的に無口な人物ですから、ダーシーが口にしないことは 時間を割いて話すことよりずっと重要なんです。映像では、勿論、顔のカットが入りますし、話していない時でも映ります。でもそれはラジオや読み合わせでは出来ないんですよね。「皆、ちょっと待ってくれ。これからこういうことをするつもりだから。で、それから ― 何でもない」なんて言えませんよね。それに僕は皆を笑わせる素晴らしい登場人物たちに囲まれていたんですけど、「やれやれ、自分は退屈な奴なんじゃないのか」って思ってました。
              誰一人として僕の方にやって来る人はいなかったんです。一人か二人は知ってる人がいましたし、話もしましたが、50人以上のキャストから外れたところにいたと言えるでしょう。僕と話そうとする人はほとんどいなかったんですよ。ダーシーを演じているから、撮影中、僕がフレンドリーな人間なんだってことを皆に信じてもらうには、ものすごく頑張らないといけないなと思ってました。

              アンドリュー・デイヴィース(訳注:BBC『高慢と偏見』の脚本を担当した)が、ダーシーにはわたしたちが最初に思うよりももっと多くのことが内包されていると伝えたいと言ってますが、どのようにしてそれを表現しようとされましたか?
              実際部屋に歩いて来ただけで感動させるような演技を始めたり、あらゆる種類の大げさな事をすることなんてできませんよ。ダーシーはそんなことをしませんからね。でも何にもしないでいることは、演技をするうえで最も難しいことの一つなんです。すごく活発で、ダイナミック、そして多様な演技というのを全部まとめてやらなくては、と始める前に思ったことを覚えています。結局そんなことはしなかったんですけど。例えば、最初のアセンブリー・ルーム(訳注:Sirウィリアム・ルーカス邸での舞踏会が行われた部屋)のシーンで、入って行ってから、傷つき、怒り、怖れをなし、当惑し、イラつき、面白がり、ゾッとして、愕然とならなければならない。しかもそのリアクション全部を、何を考えているのか分からないというこの非常に狭い枠組みの中で維持しなければならないんです。ダーシーが何を考えているのかはっきり分かっている人間なんていませんから。僕は肉体的にもっとエネルギッシュな役を演じてきましたが、ダーシーを演じている時ほど1テイク撮るごとに肉体的に消耗したことはないと思いましたよ。
              このことを特に覚えているのは、ネザーフィールドでエリザベスと僕が議論したシーンですね。ダーシーは感情的な人間なんですが、そのことをエリザベスに知られたくない。彼が彼女を厭うのは彼女に惹かれているから、そしてこの特別な会話の間、彼より彼女の方が賢かったからです。彼は観客としてビングリー家にいるんですよ。彼の内部では様々な事が進行していますが、依然として自分の気持ちをしっかり保っており、かき乱されていることなんかこれっぽちも見せません。彼は自分が混乱していることを明らかにしてはいけないのです。それでそこに座って、感情が許す限り、静かにじっとしているわけです。技術的には、そんな態度をずっと取るようにして、それからそれに反する演技をするんです。

              そのプロセスで一番難しかったのはどんな所でしょうか?
              撮影で一番嫌だったのは、ダーシーが長期間、不在であるという事実が避けられないということでした。おかげで僕はその間長い休みをもらえることになったんですよ。最初の一カ月は素晴らしい契機が始まったんだと思いました。撮影がわれわれの眼前に永遠に広がっているように思えたんです。全てが可能性に満ちていて―で、突然、五週間の追放を受けたんです。恐ろしいものでしたよ。契約期間の真ん中で何もすることのない日が入ったんですから。ロケ現場にも行ったんですけど、全く別の人たちがそこにいて、全員僕が知らない人ですよ、なんだか女の子の家族についての別の映画をやっているようでした。ちょっとだけですけどよそ者になったような気分を本当に味わいました。でももちろん、それがダーシーのこの物語での役割なんです。「撮影中でなくても来たい。そうすればこの役を続けて行くことができる」といったのを覚えています。
              そして再び撮影が始まると、何であれ自分にかけた魔法の呪文が、今度は二度と効かないんじゃないかという恐れが生じたんです。こういうことは非常に曖昧なものなんですよ。その後、二週間が過ぎて、また退場させられました。こういうことはものすごく邪魔になるんだと思うんですよね、役を演じている僕の感覚にとって。最後の最後まで勢いを持続させるのが非常に難しくなると分かっていました。とてつもない数のキャストでしたが、単純に言って今まで付き合ったことのないような人たちばかりで。僕の性格では絶対に関わりをもたいないような人たちだったんです。撮影スケジュールのおかげで少しばかり距離が出来てしまったんです。

              アンドリューの台本はダーシーの性格を理解する助けになりましたか?
              ええ、ジェーン・オースティンへの素晴らしい入口となりました。文学研究に対して抱きがちなアカデミックな世界に対するばかげた畏敬の念をアンドリューは持っていないんです。非常に楽しめる物語のように扱っていました。小説から入っていたなら、きっと関わるようにはなっていなかったと思います。アンドリューの現実的な考えと彼が時としてジェーン・オースティンより多く、具体的に設定するという事実のおかげで、非常に助かりました。ダーシーが集団のシーンで人々をポーカーフェイスで見ている時何を考えているかについて、非常に強力な提案をしてくれたんです。おかげでダーシーが単にイメージ以上のものになりました。
              こういった役を演じている時に興味深いなと思うのは、刻一刻と変わってゆく様子を見られることです。何らかの理由で何かが真実ではない時、その人物がしていることを正当化することを考えて、無理やり想像してみようとするとガタがくるんです。ダーシー役に関しては僕はこういうことは一度もありませんでしたし、あっても非常に稀でしたね。ジェーン・オースティンは実に本能的にダーシーの内面を理解していたんだなと、突然実感しましたよ。もっとも彼女はそんなことを記すほど尊大ではありませんでしたけどね。でもオースティンは外面を非常に論理的に書くことで内面を表しているんです。

              具体例を上げていただけますか?
              ダーシーがメリトンの集会場でエリザベスに対して失礼な行動を取ったのは道理にかなっているんだな、と思ったことを覚えています。僕の友人ビングリーとパーティへ行くことには同意します。ビングリーはこう言ってけしかけるんです、「さぁ、女の子がたくさんいるすごいパーティになりそうだ」ってね。で、やって来ます。僕は恐ろしいほどにシャイで…とにかく、社交上の付き合いとなると恐ろしいほど落ち着かないんです。ここは普段僕が行くような場所じゃないので、ここにいる人たちとどう話せばいいか分からない。それでお高くとまった拒絶反応という仮面をかぶって、自衛しているわけです。ビングリーはすぐにその部屋で一番魅力的な女性と仲良くなるんですが、おかげで僕は不安にさえなるんです。彼はもう浮かれていて、最高の笑顔で僕も踊るべきだって言うんです。僕が「君はこの部屋で一番の美女と踊っているからね」って言うと、彼はこう答えます、「まぁまぁ、がっかりするなよ。あまり魅力的じゃないけど彼女の妹はどうだい?」これには僕も憤慨してしまって、言うわけです。「悪くはないが、僕には十分じゃないね」でも僕が本当に言いたいのは、「おい。僕は君より上等であるべきなんだぜ。だからそんな地味な妹なんてよこしてくれるなよ。彼女を認めるつもりさえないんだからな」撮影中、心の中でこういう態度を取り続けることで、僕はそのシーンがその通りに演じられていることに気付いたんです。
              | − 試訳・翻訳 | 20:22 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
              コリン・ファース インタビュー 1/4(BBC『高慢と偏見』メイキング本より)
              0
                The Making of Pride and Prejudice”(ペンギンブックス、BBCブックス 1995年)より第九章抜粋
                著者:スージー・コンクリン、スー・バートウィッスル



                まずどうしてこのドラマに関わるようになったのでしょうか?
                非常に難解な台本を読んでいる時に6冊揃ってこの台本が送られて来たんです。どこをとっても退屈に見えたので、BBCの時代劇六話に出演する必要はないなと思いましたし、偏見もありました。1970年代を思い出したんですが、最後にテレビで観たのはその頃かな。僕が覚えているのは堅苦しかったってことです…演技も脚色もね。

                オファーの前にジェーン・オースティンの作品を読んだことは?
                ありません、1ページもね。19世紀の文学がそんなに魅力的だとは思えなくて。恐らく女の子向けのお話なんだろう、って言う偏見を持っていたんです。僕がいつも引きつけられていたのは、どちらかというと苦悶しているようなヨーロッパの文学だったし、ある程度は学校で習ったことへのリアクションなのかも。それで、『高慢と偏見』出演のオファーが来た時、読みもしないで、ただ思ったんです、「なんて陳腐なものを寄こすんだ」ってね。で、恐怖に恐れ慄きながら、バカでかい封筒を開けました。もう一つの心配だったのは、何かにそれほど長い時間を割くということです。思うに、俳優たちの大半はそのような長期の契約を結ぶことに尻込みしているんですよ。そういうわけで、僕が最初のぺージを開けたくなかった理由はたくさんあったんです。でも、たった5ページで虜になったと思います。素晴らしかった。最後を読み切るまで外出したくありませんでしたからね。これほど感情をかき立てる、もっとも基本的なロマンティック・ストーリーの条件が揃った脚本はそうあるものではないと思います。次がどうなるのか知りたくて読まなきゃならなくなるんですから。すぐに登場人物と恋に落ちますよ。でもジェーン・オースティンは見事なまでに勿体ぶるんです。
                で、スー・バートウィッスル(訳注:BBC『高慢と偏見』のプロデューサー)に最初に会いに行った時、時間がなくて第六話(訳注:最終話)の最後まで読んでなかったんです。僕はジェーン・オースティンについて何一つ知らなかったから、オースティンがこの話をハッピーエンドで終わらせたかなんてことも知らなかった。スーは実際、台無しにしてくれましたよ。ダーシーとエリザベスが結婚するって口を滑らせたんですからね。それを聞いてかなり驚きました。話を全く知らなかったからではなくて、上手くいかないんだろうなと簡単に想像できていたからなんです。状況が非常に張りつめていたので。あの本は三回か四回くらい読んでも尚、上手くいくんだろうかと何度でもあれこれ考えてしまいますね。

                それでは何故オファーを受けるのをためらったんでしょうか?
                心の中の声に耳を澄ませなければならないことは分かっていました。「楽しんだじゃないか。長い時間かけて読むことが出来たたった一つの脚本だぞ」ってね。真剣に受け止めなくてはならなかった。でも一方で、僕がダーシーにふさわしいとは思えなかったんです。ダーシーの在り様を僕が作り出せるとは思えなかった。ダーシーが、どういうわけか、あまりに大きな人物像に思えたんですね。
                僕は、ダーシーが文学史上そこまで有名な人物だったとは認識したことがありませんでした。つまり、僕はこの小説を知らなかったし、誰かがこの小説について実際に話すのを聞いたこともなかったんです。でもその後、先ほども触れましたが、誰もが僕に言うんですよ、どれだけこの本に夢中になったかとか、学校に行ってた時ダーシーに恋していたとか。それに、僕の弟(訳注:俳優のジョナサン・ファース)は「ダーシー?セクシーな奴じゃなかったっけ?」と言ってました。で、そういうことを聞くうちに、考え始めたんです。「ああ、神よ。オリヴィエ(訳注:ローレンス・オリヴィエ。米映画『高慢と偏見』(1940)でダーシーを演じた)は最高だった。他の誰もあの役を演じることなんかできない」と。
                でもそんなこと以上に、疑いが生じて来たんです。ダーシーは非常に魅惑的で…読んでいて恐ろしくワクワクさせますからね…でも最初僕には内面的な視点から書かれているとは全く思えなかったんです。ジェーン・オースティンは女性の視点から、この小説を書いたんだなって、特にエリザベスの視点からね。ダーシーは物語の多くの場面を通して、終盤近く、読者が彼の全体像を知るようになるまで、謎めいた人物であるべく創り出されたんです。僕にはそれが人間らしいとは全く思えなかった。俳優として僕がその人物を明確につかむためにはどうすればいいのか分からなかった。イメージでしかないものを演じるのは本当に不可能なんです。外面的なことですからね。それで不可能だと思い始めたんです。コリンからダーシーへ変わるには僕は実力不足だと言って、皆を落ち込ませたり、僕自身挫折を味わったりしてました。
                それにとにかくその役を演じるとしても、たいして出来はしないという矛盾した考えもありました。今までだってそうたいして出来なかったんだから、と罠のように感じたんです。こんな風に判断を下したわけです、「ダーシーを演じるのに十分自分を変えさせるには、やらなきゃいけないことが恐ろしいほどたくさんあるぞ。だが、ダーシー役の為に何かをするなんて、ダーシーを演じるのには一番ふさわしくないことじゃないか。作為的な事がうまくいくってことは、既に己がダーシーであるってことなんだから」。鏡を見ても、そこにダーシーはいなかった。勇気を出して、全力を尽くそうとは分かっていても、現実が何かってことに分別を働かせなきゃならなかった。僕にはダーシーをやるだけの能力はない。それなら、「ノー」というのが一番いいって思ったんです。

                どうして考え直したんですか?
                僕が適任だというスーの説得があまりに強いものだから、考え直さなければって思ったんです。それに台本を読み直してみたら、魔法にかかっちゃって。知らない間に引きずり込まれてしまったんですよ、あまりにもそそられたし、夢中にさせられましたから。どうなるかなんて全く認識していなかったけど、一度こういうことに関わり始めたら、虜になってしまうものだし、ああだこうだと迷うことは止めてしまうんです。ダーシーを演じることについて苦悶も想像もした後、演じない場合を検証してみました。するともし断ったら、ものすごく不幸な目に遭ったように感じるんじゃないかって気がして来たんです。もうこの役を独占し始めていたし、今ではすっかり自分のものです。他の誰かが演じたらと考えると、ひどくジェラシーを感じますね。
                | − 試訳・翻訳 | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                • 1/1PAGES